那珂湊おさかな市場の前に整備された防潮堤越しに海を見つめる林部勝弘さんと須田千鶴子さん=ひたちなか市湊本町
防潮堤整備 住民の命 生活守る 不安拭う
県内各地の東日本大震災の被災地は、復旧工事や大地震の再来に備えた対策工事が急ピッチで行われてきた。津波被害を受けた沿岸部では防潮堤や耐震強化岸壁、液状化被害のあった地域では地下水を排出する対策工事-。住民の命や生活を守るハード整備は、大きく進んだ。
■津波対策
きれいに整備された防潮堤の向こうに広がる穏やか海を見ながら、「あの日」の記憶を手繰り寄せた。
「まるで地獄のようだった」
ひたちなか市湊本町の「那珂湊おさかな市場」にある「海鮮処 海門」の店長だった林部勝弘さん(61)は10年前の津波被害の惨状を鮮明に覚えている。
2011年3月11日午後、林部さんが店で翌日の仕込みをしていた。その時、「尋常じゃない揺れに襲われた」。店から飛び出すと、本社から「逃げろ」と電話があった。外では津波の到来を知らせる防災行政無線が響いていた。急いで車のエンジンをかけ、信号が止まった道路を走って内陸を目指すと、那珂川が横目に見えた。「異様なほど水面が上がっていて恐ろしかった」
再び市場に戻ったのは翌日。「頭が真っ白になった」。津波に襲われた市場や漁港は、泥水やごみであふれ、岸壁も崩れ、停泊していた漁船が打ち上げられていた。店も損壊し、店内は食器棚などが倒れ、壁の1メートル50センチほどの高さまで水に漬かった跡が残っていた。
津波は市場全体をめちゃくちゃにした。ただ、市場の関係者たちは前を向き、早期復旧に一丸となった。地元の工務店や電気業者の協力を得て急ピッチで復旧。5月の大型連休には、早くも復興イベントが行われた。
太平洋に面し、総延長194キロの海岸線を有する本県では、大震災の教訓を踏まえ、津波対策強化事業として防潮堤のかさ上げ工事が進められてきた。海岸や河川、港湾、漁港の後背地など、住宅や幹線道路を控えた特に緊急性の高い33カ所で整備が進み、北茨城と大洗の2カ所を除く31カ所は本年度中に完成する。
震災当日、大洗町の津波観測地点では高さ4メートルの津波が午後4時52分に観測された。その後の現地調査によると、北茨城市平潟町で推定高さ6.9メートル、神栖市奥野谷では6.6メートルの津波があったとされている。
「あれからもう10年もたつんだ。こうして同じ場所で営業できることが本当にありがたい」。「海鮮処 海門」を経営する「マレタラッサ」の社長、須田千鶴子さん(55)は穏やかに話す。林部さんと同じく、津波に襲われた市場の惨状が今も脳裏に焼き付いているが、現在のコロナ禍にも負けず、今は市場全体の活性化へまい進している。
「また同じような津波が来たらどうなるのか」との不安は完全には払拭(ふっしょく)できない。ただ、今は住民の命を守る〝壁〟がある。須田さんは前を向き、防潮堤の向こうの海に誓った。「日本でも有数の港町を目指して頑張りたい」
■災害時も海上輸送 耐震強化岸壁 県内4カ所に
大地震が起きても海上輸送を可能とする「耐震強化岸壁」の整備が、東日本大震災以降、県内でも急速に進んだ。茨城港常陸那珂港区の2カ所と同港日立港区、鹿島港の計4カ所で、災害時においても緊急物資輸送や経済活動を継続することができる「強い岸壁」が整っている。
県内で、耐震強化岸壁が初めて完成したのは、東日本大震災以前の2006年。常陸那珂港区中央埠頭(ふとう)地区のA岸壁で整備された。当時から同港区は、建設機械や中古自動車を世界各地に輸出する外貿RORO(ローロー)船の一大拠点になっていたが、大震災時でも既に設置されていた耐震強化岸壁が被害を免れ、発生から4日後には利用を再開した。
大震災時、揺れと津波で岸壁が崩れるなど、各地の港で大きな被害を受け、海上輸送が滞ったことから、耐震強化岸壁の必要性が高まった。茨城港日立港区と鹿島港でも整備が進み、13年に供用が始まった。16年には、茨城港常陸那珂港区中央埠頭で、二つ目の耐震強化岸壁の供用開始。水深12メートルの岸壁で、トレーラーの直接乗り入れが可能な大型RORO船の常時2隻の接岸が可能となり、災害時の緊急物資輸送の機能が高まった。
耐震強化岸壁は、通常の岸壁より強度の高い材料を使い、横からの圧力に強い設計になっている。液状化現象が心配される場所では地盤改良なども行われる。